先日、浜松町で開催されたVショーに行ってきた。
今ではサーベルタイガーよりも希少な存在となった湾岸戦争時の米軍装備を再現したリエナクタや、もう誰も覚えていない「キャリングハンドル」という部位が付いたM16ライフルがひしめく会場を歩きながら、僕はふとナイフばかりが並ぶブースの前で歩みを止めた。
机に揃えて置かれたのは、いわゆるカランビットやガットフックスキナーのような、中学生の男の子がパンツを膨らませて喜びそうなものばかりだった。
刃物をこうした場で売る事の是非は――少なくとも主催側が許可しているのだから――僕がとやかく言う事もないし、その剣呑極まる品揃えについても――メーカーのほとんどは「マスター・カトラリー」だったけれど――口出しする筋合いではない。ただ確実に言えるのは、もしも僕があそこでククリナイフを一振り買って、不運にも帰り道に警官から所持品のチェックを受けようものなら、「デスクナイフとして買ったんです」という僕の懸命の弁解も虚しく、おそらくは身に覚えのない「コンピュータの遠隔操作」という余罪まで被って留置場に繋がれていただろう。
カッコいいナイフというものは、基本的に実用性とは無縁である。
少なくともこの日本という国に於いて、草と人間の喉を掻き切るだけにデザインされたナイフは福岡市以外で使い道はないし、「このソングホールで1 3/8インチのナットを回せます!」という類のナイフも、メートル法がイエス・キリストのように君臨する地域では役に立たない。たとえそれらの機能が、ユーザーの――多分14歳そこそこの――想像力を掻き立てたとしても。
だからこそ、僕はVショーで販売されていたナイフは買わなかったし、その後に入ったパブで僕が酒の肴に取り出したサーロを切り分けたのも、何の変哲もないレザーマンの「ウェーブ」だった。結局、シンプルで実用性に満ち満ちたナイフこそ、ユーザーを真に満足させるという事だと思う。大多数の人間は、事故を起こした自動車のウィンドウを破壊することもなければ、何かの弾みで外れなくなったシートベルトを鋭く切り裂いて脱出する必要に迫られる事もない。
読み物についても同じ事が言える。我々が常に本屋で探し求めるような本――覚え切れない長大なタイトルとアニメ調の美少女が表紙で踊るような――が話題になるのは一部の狭い世界だけで、おそらく『これで分かるエクセル関数』とか、『Windowsショートカット小技100』みたいな実用書はその何倍もの売り上げを記録しているに違いない。14歳の頃にはライトノベルの一冊も買ったかもしれない、今は30歳で後退する生え際や進撃する胴回りと戦い続ける中年男性によって伸ばされた売上で。
そんな実用性ばかりが幅を利かせる世界で、僕がアルコールがもたらす幻想世界に耽溺していた時、どういう経緯でか『学園大戦ヴァルキリーズ新小説版』を勧められた。僕の知る何人かの人間が「グロい」「慈悲がない」「容赦ない」と悲鳴を上げたらしいタイトルである。開ける前から災厄しか想像できないこのパンドラの箱を開ける決意が出来たのは、おそらく既読の人間が「お前も読んで同じ絶望感に泣け!」と僕の背中を後押ししてくれたのだと思う。
今回読んだのは『A NEW BATTLE FIELD 1945』と『OF THEIR OWN ACCORD 1947』の二作だった。ついでに言うと、電子データとして僕が購入した初めての読み物にあたる。スマートフォンで読んだ最初のPDFデータという記念すべき作品でもある。相変わらずKindleなどというものとは無縁な生活を送っているから。
筆致は非常にしっかりしている。最近のライトノベルの無秩序な文章や、僕らが無学にも「SS」という略語で一括りにしようとする、あの鍵括弧の前に話者の名前を付けたり8000億回の改行をする事が義務付けられたような文体ではなく、いたって普通の構成になっている。今では貴重なものだと思う。
物語の舞台はタイトルにあるように1940年代だが、作中で世界が辿った歴史は我々が知るものとは若干異なるようだ。ある意味ではポスト・アポカリプティックな世界観設定だったのだが、あんまり詳しくは調べていない。というのも、僕が見る限り、「19世紀の終わりに隕石が落ちて~」といったバックストーリーは、それに続く「学園同士が各国の代理戦争を行う」という設定につなげる為の下敷きに過ぎないから。そう、学園同士の生徒が戦うのが、この世界の回り方なのである。
おそらく著者の焦点はここにのみ当てられている。「少女たちが出て殺す」
この作品には、年端もいかない少年少女たちが戦う事の妥当性や、戦争がいかに人格を破壊するかといった、1970年代の終わりから2000年代中頃までさかんに扱われてきたようなテーマは存在しない。どちらかといえば『ハート・ロッカー』に近いかもしれない。啓蒙的な話でもなければ、何かが救われる事もない。ハンバーガーとコーラという先進国の食事をしながら読んでいる最中に、ふと恵まれないアフリカの子供たちの食生活を思い出したり、戦地で戦う兵士に思いを馳せて食事が喉を通らなくなるという惧れもない。いや、ゲロは吐くかもしれないが。
この「少女たちが出て殺す」話は二編とも、たとえば「ドラマ」として見た場合に盛り上がりに欠ける部分はあるかもしれないものの、充分に「ストーリー」としては機能している。描写はスピーディーで、特に素晴らしいのは「余計な説明が省かれている」という点に尽きる。実況中継の解説のような台詞や文章が入ると、読者の集中力を削ぐ。おそらく著者は知っていたのだろう。
しかし、いわゆる「凄惨さ」――というかグロさについては、以前から聞いていた評判ほどではなかった。でも、それでいいと思う。ジム・トンプスンのような読者のきんたまの袋が皺だらけになって縮むようなグロを求めて『学園大戦ヴァルキリーズ』を読む人間がいたら、彼に必要なのは精神科医と適切な薬物だろう。この作品はスナッフフィルムではない。
無論、この作品が僕の生活を精神的に豊かにする以外の方法で役立つ事はないだろう――いや、「復活」を表すロシア語くらいなら学べるかもしれない。少なくとも、パソコンのキーボードについて「Fn」というキーが何に使えるのか、といった知識は『学園大戦ヴァルキリーズ』からは確実に得られないだろう。だが、それでいいと思う。『学園大戦ヴァルキリーズ』は実用性一辺倒で退屈な「レザーマン」などではなく、今も僕のデスクの上にあって僕の少年心をくすぐる、カランビット・ナイフと同じ浪漫を持つ作品だから。
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